予想を上回るスピードで、ランの日本語会話能力は回復した。
当時はまだ平仮名もカタカナも解せず、耳だけで蓄積した日本語情報なのに、子どもの言語習得力はすごいとあらためて感心したものである。
保育園には行かず「家庭保育」していたメイ3歳は、当然ランより遅れをとったが、私が彼女たちとは極力中国語で話していたため、中国語会話力は姉より長く維持した。
母娘3人が日本に帰国して初めての旧正月、リーが1週間ほど来日したのが2009年1月末であったが、その頃まだメイだけはパパと簡単な内容なら中国語で話すことができた。
当初の約束通り、1年〜1年半で台湾へ帰る可能性が高いと実感し始めた頃から、私は中国語をつかわなくなった。それは、9月のランの例があったので、日本語を忘れて台湾へ帰ったとしても、またすぐ取り戻す自信ができたし、逆に、日本語をしっかり身につけて欲しいと考えるようになったからだった。
しかし、就寝時にはほぼ毎日中国語のCDを聴かせた。
また、週に1〜2回は1時間ほど中国語のDVDを見せた。
DVDは彼女たちが「今日は00を見たい」と指定してきた。あと、週末はパソコンのSKYPE機能を駆使して、台北のリーと「テレビ電話」を楽しむのが習慣になった。毎回1時間くらいは話した。
よって、「中国語は話せないが、聴くのは問題なし」状態が続くことになった。
5.ラン、2学期より地元校区の幼稚園入園。心配をよそに、約2週間で日本語感覚取り戻す。
聴いては理解できます、と言っても、先生方の不安は消えなかった。ランも、自分が伝えたいことがちゃんと伝えられないと可哀そうだとも言ってくださった。
私の頃がどうだったか定かでないし、この永島先生だからそうなのかわからないが、その地元校区の幼稚園は広く開放されており「いつでも園に見学にいらしてください。」との姿勢を貫いていたので、
「お母さんがしばらく園に何時間かいてもらってもいいかと……」
という話も出た。
しかし、最終的にはそれもどうもイマイチということになった。
ランが私を頼っていては、園や日本語に馴染むスピードが落ちるだろうし、ランの自立心も萎えるだろうから、あえて長い時間わざわざ私が園に待機する案は却下、様子をみながらやってみるしかないと決まった。
案ずるより産むがやすしとはよく言ったもので、9月1日、2学期より幼稚園に登園するようになった4歳10ヶ月のランは、2週間ほどでほぼ忘れていた日本語を話す感覚を取り戻した。
台北にいた時もそうだったが、外向的で人見知りしない性格もそれを後押ししたのだろう、「幼稚園大好き!」、「楽しい!」と目を輝かせ、土日さえ幼稚園へ行きたがるようになった。
そして、今度は、中国語を忘れてしまわないかという危惧にとらわれるようになる。
私の頃がどうだったか定かでないし、この永島先生だからそうなのかわからないが、その地元校区の幼稚園は広く開放されており「いつでも園に見学にいらしてください。」との姿勢を貫いていたので、
「お母さんがしばらく園に何時間かいてもらってもいいかと……」
という話も出た。
しかし、最終的にはそれもどうもイマイチということになった。
ランが私を頼っていては、園や日本語に馴染むスピードが落ちるだろうし、ランの自立心も萎えるだろうから、あえて長い時間わざわざ私が園に待機する案は却下、様子をみながらやってみるしかないと決まった。
案ずるより産むがやすしとはよく言ったもので、9月1日、2学期より幼稚園に登園するようになった4歳10ヶ月のランは、2週間ほどでほぼ忘れていた日本語を話す感覚を取り戻した。
台北にいた時もそうだったが、外向的で人見知りしない性格もそれを後押ししたのだろう、「幼稚園大好き!」、「楽しい!」と目を輝かせ、土日さえ幼稚園へ行きたがるようになった。
そして、今度は、中国語を忘れてしまわないかという危惧にとらわれるようになる。
4.2008年8月、母娘3人日本へ。帰国翌日、ランが入る幼稚園を訪ねる。
子煩悩なリーが、可愛い盛りの娘たちと離れて暮らすには相当な決意と譲歩があったのだと感謝している。
実は、私の父が肺気腫を患っており、完治は無理で、少しずつ悪化していた。当時すでに75歳になっており、父が孫たちと遊べるうちに一時帰国でもかなえてやろうという計らいも大いにあった。
就学まで、とは言うものの、台北にひとり残るリーの意向を尊重して、半年になるか、1年になるか、はっきり決められないまま台湾を発った。2008年8月25日のことだった。
その時、ランは4歳と10ヶ月、メイは3歳7ヶ月。
帰国した翌日、私はさっそくランが9月から入る幼稚園の主任の先生に会いに行った。
私の実家は自然豊かな里にあり、幼稚園と言えば、居住する校区にある公立幼稚園に通うことになる。
園舎は新築されているが、私も数十年前に卒園した、懐かしい幼稚園に胸ときめく。わが子が母校に入る喜びは思いのほか大きかった。
実家の母を通じて、ランの2学期入園の準備は進んでいた。
その日園を訪ねると、担任になる岸本先生もいらして、下駄箱や各種棚などにランの名札を貼ったり、教材や道具箱もそろえてくださっていることがわかり、感激した。
主任の永島先生とは1時間近くお話したが、いちばん時間をかけたのがランの日本語問題であった。
実は、私の父が肺気腫を患っており、完治は無理で、少しずつ悪化していた。当時すでに75歳になっており、父が孫たちと遊べるうちに一時帰国でもかなえてやろうという計らいも大いにあった。
就学まで、とは言うものの、台北にひとり残るリーの意向を尊重して、半年になるか、1年になるか、はっきり決められないまま台湾を発った。2008年8月25日のことだった。
その時、ランは4歳と10ヶ月、メイは3歳7ヶ月。
帰国した翌日、私はさっそくランが9月から入る幼稚園の主任の先生に会いに行った。
私の実家は自然豊かな里にあり、幼稚園と言えば、居住する校区にある公立幼稚園に通うことになる。
園舎は新築されているが、私も数十年前に卒園した、懐かしい幼稚園に胸ときめく。わが子が母校に入る喜びは思いのほか大きかった。
実家の母を通じて、ランの2学期入園の準備は進んでいた。
その日園を訪ねると、担任になる岸本先生もいらして、下駄箱や各種棚などにランの名札を貼ったり、教材や道具箱もそろえてくださっていることがわかり、感激した。
主任の永島先生とは1時間近くお話したが、いちばん時間をかけたのがランの日本語問題であった。

