さて、今二胡母は、一つ目の記事を書いた新店校から地下鉄で移動し、台北中央駅前の漢口校にいる。午後1:30から日本語初級のクラスがあるからだ。
今日の二胡母、とっても忙しい。月曜日は今月から授業が3コマに増えたのと、今日は月に一度の通院日に当たっている。心の健康を診てもらっている三軍総病院の毛医師のところへ行く日だ。よって、午前中ひとコマ
午後ひとコマ、その後、また地下鉄で病院、終わったらまた地下鉄でこのすぐそばにある台北中央駅前校でひとコマの授業。終了は8:00という日程だ。
これほど詰まったスケジュールでも、診察をキャンセルしないのは、やはり毛医師と会い、言葉を交わす効能を知っているからだ。やはり先生と話すと心が落ち着く。薬も切れるのがまだ心配だ。
一人暮らしを始めて楽になった面もあるが、二胡母、たとえ近いとは言っても、娘たちと居を別にしたことはない。これがどんなに寂しいことか、体験してみて始めてわかる。忙しくてもまぎれない悲しみはあるのだ。
ひとの数だけ、生き方や価値観はある。何が良く、何が悪いと言えないことも多い。
だが、二胡母は、ひとの親となって、その絆の深さというものを知った気がする。血のつながらない絆もある。
絆。
最終的に、人間はこれに支えられて生きているのではないか、とまで考えることもある。
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