実は、私の父が肺気腫を患っており、完治は無理で、少しずつ悪化していた。当時すでに75歳になっており、父が孫たちと遊べるうちに一時帰国でもかなえてやろうという計らいも大いにあった。
就学まで、とは言うものの、台北にひとり残るリーの意向を尊重して、半年になるか、1年になるか、はっきり決められないまま台湾を発った。2008年8月25日のことだった。
その時、ランは4歳と10ヶ月、メイは3歳7ヶ月。
帰国した翌日、私はさっそくランが9月から入る幼稚園の主任の先生に会いに行った。
私の実家は自然豊かな里にあり、幼稚園と言えば、居住する校区にある公立幼稚園に通うことになる。
園舎は新築されているが、私も数十年前に卒園した、懐かしい幼稚園に胸ときめく。わが子が母校に入る喜びは思いのほか大きかった。
実家の母を通じて、ランの2学期入園の準備は進んでいた。
その日園を訪ねると、担任になる岸本先生もいらして、下駄箱や各種棚などにランの名札を貼ったり、教材や道具箱もそろえてくださっていることがわかり、感激した。
主任の永島先生とは1時間近くお話したが、いちばん時間をかけたのがランの日本語問題であった。
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